奈良時代、泰澄大師の開山により、白山信仰は形づくられ大衆化されてきた歴史がある。平安時代には加賀、越前、美濃それぞれの登拝拠点に馬場が設けられ、大衆化の流れを加速させた。
自らの身を清める目的や亡くなった方への成仏のため、白山登拝が行われていたが、修験者のみならず、武士にとっても白山の神様は心の寄り所であり、また、戦に勝つためにも白山信仰の修験者とのネットワークは非常に有益なものであった。
「源平盛衰記」によれば、1183年には北陸路を都へ攻め入るため、木曽義仲が白山の三馬場に祈願していたことが記載されている。鎌倉時代になると朝廷や武士、豪族からの信仰がより厚く、寺領は飛騨国河上庄を含んだ広大な範囲になったとされる。
今も残る全国各地にある白山神社の数からも、当時、財を成していた勢力からの信仰の厚さを伺うことができる。
平安時代末期、奥州藤原氏第3代の藤原秀衡も白山を厚く崇敬していた武将の一人である。
郡上市白鳥町石徹白にある「大師堂」。
ここにある銅造虚空蔵菩薩坐像(国の重要文化財)は藤原秀衡によって奉献されたものとされる。
この虚空蔵菩薩坐像の寄進は、源義経の逃避行に関わっている。
平安時代末期は平家滅亡から源頼朝と源義経が対立に至る時代だ。源義経が平泉(現在の岩手県)にある持仏堂で最後を迎えるまでの逃避ルートには諸説あるが、鎌倉時代の正史「吾妻鏡」には「伊勢・美濃を通った」と記載されており、白山麓の難渋なコースを逃避できたのは、白山山伏とのネットワークが構築されていたからではないかとされている。
源義経の庇護者と言われる藤原秀衡による虚空蔵菩薩坐像の寄進には、時代を生き抜くためのネットワークを構築するための重要な一手であり、その像が今もなお白山の地で守られた歴史を知ることでこの像の見方も変わってくるのではないだろうか?
虚空蔵菩薩坐像は奥州で鋳造され、東山道、東海道を長き旅路を経て、藤原秀衡の家来によって石徹白まで運ばれた。奉献の重役を命じられ石徹白まで運んだ家臣は「上村十二人衆」と呼ばれる選りすぐりの家臣である。
上村十二人衆は、寄進後も奥州に戻ることなく、奥州が源頼朝に支配された後も石徹白で社人となり盗難、焼失、打ち壊しなどの危機から子々孫々に願いをつなぎ、代々この仏像を守り続けている。
特に、明治維新の直後に行われた廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)では、銅像(仏像)は打ち壊しの対象であり危機を迎えた。
その時であっても、上村家により密かに虚空蔵菩薩坐像を白山中居神社から運びだし、観音堂と大師堂を建立し、今もなお藤原秀衡の思いと共に引き継がれている。